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無機化学

沈殿平衡・溶解度積

溶解度積平衡を用いて沈殿を予測し、溶解度を計算し、選択分離・錯形成・結晶成長を理解する。

直観溶存イオン濃度が高まりすぎると沈殿が生じる

透明な2溶液を混ぜると固体が生じることがある。混合前に濁っていたかではなく、混合後の関係イオン濃度の積が溶解度積を超えるかどうかが重要である。黄金色のPbI₂結晶はその例である。

KI水溶液をPb(NO₃)₂に加えると、イオン積がKspを超えたとき黄色のPbI₂が生じて沈む。添加量の操作は供給量と模擬沈降を変えるもので、校正済み濃度や結晶収率を示すものではない。

ガラス器具の場面では、KIをPb(NO₃)₂に加えるとイオン積がKspを超えたとき黄色のPbI₂結晶ができる。「添加量」操作で供給量と沈降アニメーションが変わる。

学校溶解平衡・Ksp・イオン積

MXaXXb(s)⇌a MXn+(aq)+b XXm−(aq)Ksp=aMXn+ aaXXm− b≈[MXn+]a[XXm−]b\ce{M_aX_b(s) <=> aM^{n+}(aq) + bX^{m-}(aq)}\\K_{sp}=a_{\ce{M^{n+}}}^{\,a}a_{\ce{X^{m-}}}^{\,b}\approx[\ce{M^{n+}}]^a[\ce{X^{m-}}]^b

定義: 溶解度積

Kspは難溶性イオン固体の溶解平衡定数で、イオン活量で表す。純固体の活量は1なので式から省く。希薄溶液では活量をモル濃度で近似することが多い。反応商Qも同じ形だが、平衡とは限らない現在の濃度を用いる。

QとKspの比較による判定
条件状態・傾向
Q<Ksp未飽和;固体がさらに溶ける
Q=Ksp固体共存の飽和平衡
Q>Ksp過飽和;熱力学的に沈殿が有利

沈殿の熱力学的開始条件はQ=Kspだが、核生成が遅ければ過飽和溶液は一時的に保たれることがある。固体が共存する平衡ではQ=Kspである。混合計算では希釈とイオンを消費する反応を先に考慮する。

25 °Cにおける代表的Ksp(概数)
固体溶解化学量論Ksp
AgClAg⁺ + Cl⁻1.8×10⁻¹⁰
AgBrAg⁺ + Br⁻5.4×10⁻¹³
AgIAg⁺ + I⁻8.5×10⁻¹⁷
BaSO₄Ba²⁺ + SO₄²⁻1.1×10⁻¹⁰
CaCO₃Ca²⁺ + CO₃²⁻3.4×10⁻⁹
PbI₂Pb²⁺ + 2 I⁻約9.8×10⁻⁹
Mg(OH)₂Mg²⁺ + 2 OH⁻5.6×10⁻¹²
Fe(OH)₃Fe³⁺ + 3 OH⁻2.8×10⁻³⁹
Ag₂CrO₄2 Ag⁺ + CrO₄²⁻1.1×10⁻¹²
CaF₂Ca²⁺ + 2 F⁻3.5×10⁻¹¹
純水中での溶解度sとKsp
型イオン濃度Kspとの関係;s
AB[A]=s, [B]=sKsp=s²; s=Ksp¹ᐟ²
AB₂またはA₂Bsと2sKsp=4s³; s=(Ksp/4)¹ᐟ³
AB₃またはA₃Bsと3sKsp=27s⁴; s=(Ksp/27)¹ᐟ⁴

純水中のMₐXᵦでは溶解により[M]=as、[X]=bsとなり、Ksp=(as)ᵃ(bs)ᵇ=aᵃbᵇsᵃ⁺ᵇ、したがってs=(Ksp/(aabb))1/(a+b)s=(K_{sp}/(a^a b^b))^{1/(a+b)}である。共通イオン、副反応、加水分解、顕著な活量補正がないと仮定する。

例: Kspからモル溶解度を求める

Kspがそれぞれ1.8×10⁻¹⁰、1.1×10⁻¹²、9.8×10⁻⁹であるAgCl、Ag₂CrO₄、PbI₂の純水中のsを求める。

解答

AgCl ⇌ Ag⁺+Cl⁻ではs=√Ksp=1.34×10⁻⁵≈1.3×10⁻⁵ M。Ag₂CrO₄とPbI₂ではKsp=4s³であり、s=(Ksp/4)¹ᐟ³からそれぞれ6.50×10⁻⁵≈6.5×10⁻⁵ M、1.348×10⁻³≈1.35×10⁻³ Mとなる。

共通イオン効果は生成イオンが既に存在するため溶解度を下げる。酸は陰イオンがプロトン化される塩(CO₃²⁻やF⁻など)やOH⁻が中和される水酸化物の溶解度を高めることがある。逆に塩基性pHは水酸化物沈殿を促す。錯形成は遊離金属イオンを除き、固体の追加溶解を促す。

例: 共通イオン存在下のAgCl溶解度

25 °C、0.10 M NaCl中のAgCl溶解度を見積もる。Ksp=1.8×10⁻¹⁰。

解答

s=[Ag⁺]、[Cl⁻]≈0.10 Mとする。s(0.10)=1.8×10⁻¹⁰よりs≈1.8×10⁻⁹ M。溶解で加わる塩化物は背景濃度に比べて無視できる。

例: 混合するとPbI₂は沈殿するか

0.010 M Pb(NO₃)₂ 50 mLと0.020 M KI 50 mLを混合する。Ksp(PbI₂)=9.8×10⁻⁹と比較する。

解答

等体積混合で濃度は半分となり、[Pb²⁺]=0.0050 M、[I⁻]=0.010 M。Q=0.0050(0.010)²=5.0×10⁻⁷>KspなのでPbI₂が沈殿する。この開始判定は最終平衡量を求めるものではない。

例: Mg(OH)₂沈殿開始pH

25 °Cで、0.010 M Mg²⁺からMg(OH)₂が沈殿し始めるpHを、Ksp=5.6×10⁻¹²、理想濃度として求める。

解答

開始条件では[OH⁻]=√(Ksp/[Mg²⁺])=√(5.6×10⁻¹²/0.010)=2.37×10⁻⁵ M。pOH=4.63、pH=14.00−4.63=9.37。

大学連成平衡・分離・分析への応用

選択沈殿は析出開始濃度の差を利用する。モール法ではクロム酸イオンを指示薬とする。Cl⁻ 0.010 M、CrO₄²⁻ 0.0010 Mの場合、AgClの開始は[Ag⁺]=Ksp/[Cl⁻]=1.8×10⁻⁸ M、Ag₂CrO₄には[Ag⁺]=√(Ksp/[CrO₄²⁻])=3.3×10⁻⁵ Mが必要である。よってCl⁻が先に沈殿し、大部分が除かれた後にクロム酸塩が現れる。

例: 分別沈殿:塩化物からクロム酸塩へ

上記濃度でAg₂CrO₄が生じ始める時の残存[Cl⁻]を見積もる。Ksp(AgCl)=1.8×10⁻¹⁰、Ksp(Ag₂CrO₄)=1.1×10⁻¹²。

解答

クロム酸塩の開始には[Ag⁺]=√(1.1×10⁻¹²/0.0010)=3.32×10⁻⁵ Mが必要。AgCl固体が存在する間、[Cl⁻]=Ksp/[Ag⁺]=1.8×10⁻¹⁰/(3.32×10⁻⁵)=5.4×10⁻⁶ M。初濃度0.010 Mの約99.95%が沈殿したことになる。

古典的定性分析では試薬と酸性度で陽イオンを分離する。第I族は難溶性塩化物を形成する。酸性H₂SはS²⁻濃度を抑えながら極難溶性の第II族硫化物を沈殿させ、塩基性では硫化物濃度が増し、より溶けやすい第III族硫化物も沈殿しうる。族の分類は分析法によって異なり、実際の分離ではpH・錯形成・試薬濃度の制御が必要である。

アンモニアは[Ag(NH₃)₂]⁺(Kf≈1.1×10⁷)を形成して遊離[Ag⁺]を下げ、連成平衡によりAgClを溶かす。AgBrは溶けにくく、通常の定性分析条件ではAgIはほぼ溶けない。モール滴定は持続するAg₂CrO₄の生成をクロム酸塩で検出し、フォルハルト滴定はチオシアン酸イオンによる赤色FeSCN²⁺錯体で過剰Ag⁺を検出する。

重量分析では分析対象を組成既知の難溶性固体に変換し、ろ過・洗浄・乾燥または強熱して質量から量を求める。粒子成長と純度が重要で、包蔵・吸着・共沈は質量誤差を生む。同様の平衡はシュウ酸カルシウム結石、硬水のCaCO₃スケール、電解質によるコロイド凝集にも関与する。

上級沈殿の熱力学・ナノスケール像

熱力学的Kspは活量で定義される。有限のイオン強度では多くのイオンでγᵢ<1となり、濃度積と活量積は異なる。不活性電解質の添加は、温度一定で熱力学的Kspが不変でも見かけのモル溶解度を高めうる(異種イオン効果・塩効果)。特異的相互作用には拡張Debye–Hückel式やPitzerモデルが必要となる。

ΔGdiss∘=−RTln⁡Ksp(dimensionless thermodynamic Ksp; standard states implied)\Delta G^\circ_{\mathrm{diss}}=-RT\ln K_{sp}\\\text{(dimensionless thermodynamic }K_{sp}\text{; standard states implied)}

溶解自由エネルギーは結晶格子の安定化とイオンの水和・溶媒和の競合を反映する。イオン対(例:中性CaSO₄⁰)の形成により、全溶存分析濃度はKspに入る遊離イオン濃度を上回りうる。したがって実測溶解度はKspだけから求める単純な化学量論的sとは限らない。

過飽和は核生成と成長を駆動する。古典核生成論では、新核の正の表面自由エネルギーと有利な体積自由エネルギー利得が競合し、臨界半径が生じる。それより小さい核は溶けやすく、大きい核は成長しやすい。その後のオストワルド熟成では小粒子が溶け、大粒子が成長する傾向がある。

曲率は小結晶の化学ポテンシャルを高め、平衡溶解度を上げる。Gibbs–Thomson(Ostwald–Freundlich)関係は、球状粒子の溶解度が半径の逆数に対して概ね指数関数的に増加すると予測し、係数は界面エネルギー、モル体積、温度、溶媒に依存する。したがってバルクの表Kspだけではナノ結晶を完全に記述できない。

ワルター・ネルンストは1889年に溶解度積による取り扱いを導入し、イオン平衡を定量的な沈殿論と結び付けた。オストワルトの溶液平衡と核生成に関する研究は、溶解度・過飽和・結晶成長を解釈する物理化学的枠組みを築く一助となった。

参考文献

  • Inorganic Chemistry · Catherine E. Housecroft; Alan G. Sharpe, 2018
  • Quantitative Chemical Analysis · Daniel C. Harris, 2010